切羽へ 著 井上荒野
切羽へ 著 井上荒野
直木賞受賞作。
セイの勤める学校へ男性教師が赴任してきた。
夫がいるセイの心が微妙に変化していく・・・
感想 面白かったです。直木賞という言葉で手をとった作品。
恥ずかしながら、作者も今まで知らなかった方でしたけれど、
とっても面白く読むむことができました。
本を読み終ったあとに
この作品が書かれた背景や作者の経歴を調べ、
なるほど・・・・と思い当たる部分を多く感じました。
そしてもう一度読み返したりして・・・・・・笑
文章に隠された、深い思いをもう一度確認したいという思いに駆られるのですよね。
意味深な部分もあるのでどう推測していくかが読者の読みにかかっているかな・・・って思います。
想像力もかきたてられます。
主人公のセイの心情が中心ですので、女性としては共感できる部分も多くあります。
何故惹かれるのかは別にしても(そこは主人公にしかわからない部分だけど)
心のざわめきの過程が
非常に綿密だな・・・って思うのです。
・・・このお話、2人の間(セイと、東京から来た石和との間)には
性的な行為は何も起こらないのですよね。
抱擁もキスもなし。
唯一、・・・保健室に足の怪我で石和がやってきて、その処理をするシーンでは
触れていましたが。
そのときの会話が月江(同じ島に住む女性)と寝たかどうか・・・です。
ここ、会話の内容だけ読んでいるとなんていうことはないのですけれど、
お互いの心にはもっと複雑な思いが湧いているのかな・・・と想像できるような
気がしてとっても印象的なシーンでした。
こんな風に表面的に何も起こらない小説ってもしかしたら初めてかも。
でも、行為がないにもかかわらず、
文章表現はとても艶かしいです。
「そんなとき私は、自分が卵の黄身になったような気持ちがした。
たとえばマヨネーズを作るとき、白身を分かつために、殻と殻との間で注意深く揺すられる卵の黄身」(3ページ)
↑の表現がすごく印象的。女性的だなって感じました。
<舞台は、父で作家の井上光晴が故郷と語った長崎県の炭鉱の島・崎戸>・・・読売記事より
本文には舞台になる島の名前、場所ははっきり
書かれていないのですが、↑のような設定のようです。
だからキリストの像なのですね。方言もその土地を象徴しているのでしょう。
2008年の読売の著者のインタビューから・・・・・
<結婚したばかりのころ。最愛の男性と暮らす幸福感と安心感の中で、「いつかこんなに好きな夫を愛せなくなる日がくるかもしれない。ふとそう思ってこわくなった」。その思いが作品の根底にあるという。>
↑これを読んだ時、結婚したてですぐに思ってしまうなんて・・・と驚き。
でもたしかに、一生同じ強さで愛し続ける関係というのは自分だとしても
無理。ただ愛せなくなるとは思ってはいないな・・。そこに別の愛が生まれると常々思っていますけど。
そりゃ、出会ったときと同じ情熱でというのはちょっとね。
おそらく多くの人はもっと落ちついた愛着のようなものを夫婦間で作り上げて
いくのではないかな。
最愛の夫がいるのに
別の人に惹かれてしまうということ。
夫が嫌いなわけじゃあなく、その愛情とは別の所で
まったく別の感情が生まれてしまうということ。
・・・・・そういう精神的な不倫とでもいいましょうか。
やっぱり面白いです・・・・笑
対照的に出てくる月江さんは、肉欲バリバリで思ったことはすべて行動に
移し、また発言もする・・・。
だからといって、気が多いわけでもなく、「本土さん」を一途に愛しているわけです。
自分に嘘偽りのない生き方の月江さんは
魅力的でさえ感じます。
小説では、主人公セイが石和に惹かれる
これ!!!といった、きかっけも、理由付けもありません.
正直、読んでいる限り、夫は素敵な男性と思われ(いつも妻を気遣い、愛し、大切にしていてくれる様が読み取れる)
るのに、何故っていう疑問さえ持ってしまいます。
でも、人が人に惹かれるのに
やっぱり理由なんかない・・・・というのを示したかったからこそ、こういう設定なのかな
と・
2008年の読売の著者のインタビューから・・・
<石和の人物像も、小説誌連載時から大きく書き換えた。「連載中は、セイが好きになる理由が必要だ思ってたからもっといいやつだった。でも、理由がなくても人は人を好きになる。好きになるってそういうことだと思って……」>
↑ああ・・やっぱり、そうなんだ。
確信犯的に設定していたんですね。
連載中の部分も読みたかった気がするけれど・・・。
逆に石和のほうからも、自分を好きだという光線を発していたのかもね。
それを察したからこそ、惹かれたということもあるし・・
トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と言うとよ。
トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまうとばってん、
掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」 (195ページ)
↑これで、題名の意味がわかり、ハッとしました。
それまでは、どういう意味かわからなかったから。
意味も深く、素敵な題名ですよね。
「あの人の奥さんのことを化け物みたいって思っていたけど。
あなたも妖怪ね。妻って人種はきっとみんな妖怪なのね。遠慮してよかったわ」
(198ページ)
妻は恐いというのは実感としてわかるかも。
夫も月江もあのおばあさんも、
セイの気持ちはわかっていたということなんですよね。
特に夫・・・・
すごく深い愛情じゃない?
感情にさまよう妻を、攻め立てることもせず
静かに待っていたということでしょ。とはいうものの出張もなにげに早く帰ってきたし。
夫は夫で色々思うこともあったんじゃないのかな。
そこら辺は推測するしかないけどね。
最後のシーン・・・印象的でした。
あの、石和さんが残した木切れのクルス。
そしてセイのお母さんがお父さんのプレゼントしたのはマリア像。
その対比もなかなか・・・
う~~ん、映画的なお話ですね。

直木賞受賞作。
セイの勤める学校へ男性教師が赴任してきた。
夫がいるセイの心が微妙に変化していく・・・
感想 面白かったです。直木賞という言葉で手をとった作品。
恥ずかしながら、作者も今まで知らなかった方でしたけれど、
とっても面白く読むむことができました。
本を読み終ったあとに
この作品が書かれた背景や作者の経歴を調べ、
なるほど・・・・と思い当たる部分を多く感じました。
そしてもう一度読み返したりして・・・・・・笑
文章に隠された、深い思いをもう一度確認したいという思いに駆られるのですよね。
意味深な部分もあるのでどう推測していくかが読者の読みにかかっているかな・・・って思います。
想像力もかきたてられます。
主人公のセイの心情が中心ですので、女性としては共感できる部分も多くあります。
何故惹かれるのかは別にしても(そこは主人公にしかわからない部分だけど)
心のざわめきの過程が
非常に綿密だな・・・って思うのです。
・・・このお話、2人の間(セイと、東京から来た石和との間)には
性的な行為は何も起こらないのですよね。
抱擁もキスもなし。
唯一、・・・保健室に足の怪我で石和がやってきて、その処理をするシーンでは
触れていましたが。
そのときの会話が月江(同じ島に住む女性)と寝たかどうか・・・です。
ここ、会話の内容だけ読んでいるとなんていうことはないのですけれど、
お互いの心にはもっと複雑な思いが湧いているのかな・・・と想像できるような
気がしてとっても印象的なシーンでした。
こんな風に表面的に何も起こらない小説ってもしかしたら初めてかも。
でも、行為がないにもかかわらず、
文章表現はとても艶かしいです。
「そんなとき私は、自分が卵の黄身になったような気持ちがした。
たとえばマヨネーズを作るとき、白身を分かつために、殻と殻との間で注意深く揺すられる卵の黄身」(3ページ)
↑の表現がすごく印象的。女性的だなって感じました。
<舞台は、父で作家の井上光晴が故郷と語った長崎県の炭鉱の島・崎戸>・・・読売記事より
本文には舞台になる島の名前、場所ははっきり
書かれていないのですが、↑のような設定のようです。
だからキリストの像なのですね。方言もその土地を象徴しているのでしょう。
2008年の読売の著者のインタビューから・・・・・
<結婚したばかりのころ。最愛の男性と暮らす幸福感と安心感の中で、「いつかこんなに好きな夫を愛せなくなる日がくるかもしれない。ふとそう思ってこわくなった」。その思いが作品の根底にあるという。>
↑これを読んだ時、結婚したてですぐに思ってしまうなんて・・・と驚き。
でもたしかに、一生同じ強さで愛し続ける関係というのは自分だとしても
無理。ただ愛せなくなるとは思ってはいないな・・。そこに別の愛が生まれると常々思っていますけど。
そりゃ、出会ったときと同じ情熱でというのはちょっとね。
おそらく多くの人はもっと落ちついた愛着のようなものを夫婦間で作り上げて
いくのではないかな。
最愛の夫がいるのに
別の人に惹かれてしまうということ。
夫が嫌いなわけじゃあなく、その愛情とは別の所で
まったく別の感情が生まれてしまうということ。
・・・・・そういう精神的な不倫とでもいいましょうか。
やっぱり面白いです・・・・笑
対照的に出てくる月江さんは、肉欲バリバリで思ったことはすべて行動に
移し、また発言もする・・・。
だからといって、気が多いわけでもなく、「本土さん」を一途に愛しているわけです。
自分に嘘偽りのない生き方の月江さんは
魅力的でさえ感じます。
小説では、主人公セイが石和に惹かれる
これ!!!といった、きかっけも、理由付けもありません.
正直、読んでいる限り、夫は素敵な男性と思われ(いつも妻を気遣い、愛し、大切にしていてくれる様が読み取れる)
るのに、何故っていう疑問さえ持ってしまいます。
でも、人が人に惹かれるのに
やっぱり理由なんかない・・・・というのを示したかったからこそ、こういう設定なのかな
と・
2008年の読売の著者のインタビューから・・・
<石和の人物像も、小説誌連載時から大きく書き換えた。「連載中は、セイが好きになる理由が必要だ思ってたからもっといいやつだった。でも、理由がなくても人は人を好きになる。好きになるってそういうことだと思って……」>
↑ああ・・やっぱり、そうなんだ。
確信犯的に設定していたんですね。
連載中の部分も読みたかった気がするけれど・・・。
逆に石和のほうからも、自分を好きだという光線を発していたのかもね。
それを察したからこそ、惹かれたということもあるし・・
トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と言うとよ。
トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまうとばってん、
掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」 (195ページ)
↑これで、題名の意味がわかり、ハッとしました。
それまでは、どういう意味かわからなかったから。
意味も深く、素敵な題名ですよね。
「あの人の奥さんのことを化け物みたいって思っていたけど。
あなたも妖怪ね。妻って人種はきっとみんな妖怪なのね。遠慮してよかったわ」
(198ページ)
妻は恐いというのは実感としてわかるかも。
夫も月江もあのおばあさんも、
セイの気持ちはわかっていたということなんですよね。
特に夫・・・・
すごく深い愛情じゃない?
感情にさまよう妻を、攻め立てることもせず
静かに待っていたということでしょ。とはいうものの出張もなにげに早く帰ってきたし。
夫は夫で色々思うこともあったんじゃないのかな。
そこら辺は推測するしかないけどね。
最後のシーン・・・印象的でした。
あの、石和さんが残した木切れのクルス。
そしてセイのお母さんがお父さんのプレゼントしたのはマリア像。
その対比もなかなか・・・
う~~ん、映画的なお話ですね。

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